日光

先週の日曜日、連休であった。休日であり、快晴であったから、日当たりの悪い6畳に閉じこもっていることは、非常に無為であると思った。
然れども、繁華街に出れば、人、人、人の洪水であり、一体何のために繁華街に出たのか分からなくなるような状況であることは、昨日錦糸町界隈を徘徊しているだけで理解できた。
錦糸町ですらこの混み様であるから、あるいは新宿、渋谷、秋葉原などは相当な人ごみが予想され、のこのこと出かけて行く気にはならない。
そもそも、人が繁華街に集中しているのであるから、どこかしら、人口密度の低くなっているところはある筈であろう。そこに出かければ、のんびりとした休日が過ごせる。そう思った。

 
日光である。
 
繁華街でもなく、都心からも遠く離れた日光であるなら、きっと人ごみもなくのんびりとした休日が過ごせる。そう思った。
それに、日光には有名な眠り猫の彫刻があると聞き、行って、見たかったのである。私は、浅草駅に駆け込んで、日光までの切符を買い求めた。
片手に文庫本を手にして、ふらり一人旅である。
徐々に建物が少なくなり、また、鉄橋を渡るたびに川の水が澄んでいくのを見るにつけ、ますます人口密度の低さを感じ、ゆるやかな休日を感じるのである。
 
列車がとまり、駅を降りて緩やかな坂道を延々と歩いてゆくと、名にし負う東照宮が見えた。そこここに名宝、至宝、国宝があり、絢爛豪華である。また、福福しい彫刻、猫、猿などコミカルな彫刻もあり、これもまた、面白い。
要所要所で寺、および神社の案内人が、解説をしてくれるので、大学浪人時代の一年間しか日本史に触れていない私でも、この日光の歴史的背景、建物、仏像がいかにすばらしいものであるかを説いてくれ、それにより、非常に感心する。
と同時に、幸せになるための矢、板、キーホルダーのセールストークが混じり、これを買うといかに家内安全、交通安全、念願成就に効果覿面であるか、説いてくれる。欲しくなった。幸せになりたかった。けれどもそれら幸せへの通行票を手にするには、それなりの誠意というか、対価が求められ、私はとくに金の矢が欲しかったのだけれど、これは3000円を要し、帰りの電車賃を考えると、おいそれと財布から取り出せる金額ではなく、これをあきらめざるを得なかった。
この金の矢を買いさえすれば、災厄から逃れられ、健康で健やかな毎日を送ることができるのであるから、実に安いと思う。安いと思うけれど、今の自分には高いと思える額であり、すなわち、健康で健やかな毎日を、易々と入手することは、今の私には難しいということである。
健康で健やかな毎日とは、寝食を惜しんで仕事に打ち込み、また、残業を恐れることなく、24時間働けますかの精神で出世をして、初めて手にすることができるのである。なんというスパイラル。
 
そんなもんいらねえ。
 
心の中でそう呟き、私は国宝、世界遺産の外面的な美しさのみを目に焼きつけ、私は一人帰路についた。
本当は華厳の滝も行きたかった。しかしどういうわけか日光の人口密度は都心のそれに近く、道は渋滞、バスは来ないのであるから、華厳をあきらめ、質素に各駅停車に乗り込んで帰宅したのである。
 
都心にも人があふれ、郊外にも人があふれ、一体どこに行けば落ち着けるのだろう。
そう思いながら自宅のドアを開けると、そこは今日一番の人口密度が低い場所であり、ここが落ち着ける場所であるのだ。幸せの青い鳥はすぐそこにいたのだ。と小躍りしたものの、小躍りを踊るにつけ増大する空しさは、一人暮らしの宿命だろうか。
旅行は、そういうことを具現化させるから、好きだけど嫌いだ。